いろんな意味で(上)                   土井ヴぃ  ベッドボードの目覚まし時計を見ると、ちょうど3時を指していた。僕はすうすうと可愛い寝息を立てる月浦先輩の顔をちらりとのぞき見てから、再び枕に頭を乗せた。  月浦小夜は、僕の所属する写真部の先輩で、3年生。背は僕より少しだけ高く、肩にかかる長い髪が特徴的な、僕の、彼女だ。  先輩と初めて出会ったのは、僕が入学して1週間ほど経った日。放課後の校舎は、それぞれの部活が新入生の勧誘に躍起になっていて、どこもにぎやかだったが、それでも5時を過ぎると大体は静寂を取り戻していた。文芸部の見学に行った後も雨が降り続いていたから、僕は雨が止むのを待つついでに、ちょっと気になっていた写真部の部室をのぞいてみることにした。  2階の端っこの、教室の半分くらいの大きさの部屋が、写真部の部室だった。ドアの窓からそこをのぞくと、ほっそりとして背が高い一人の黒髪の女の子が目に映った。一人窓際にたたずみ、じっと灰色の雲を見上げているその人こそ、月浦先輩。薄暗く小さな部屋の中、彼女だけは淡い光を放っているようで、ドアを開けるのをしばらくためらうほど神秘的な雰囲気をまとっていた。 「あの……すみません、見学に来たんですけど」  それでも思い切って僕はドアを開けた。先輩はやや戸惑ったような仕草を見せたが、ペコリと礼をして、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を僕の近くに開いて置き、自身も椅子に座った。僕と先輩は事務机を挟んで向かい合わせになったが、先輩は一向に話そうとしない。先の文芸部は大いににぎやかで、先輩方は僕がドギマギしてしまうほど積極的に部活の紹介だとか年間のスケジュールなどを説明してくれた。こことはまるで正反対だったのだ。もっとも、文芸部と比較する必要もないくらいに、先輩の沈黙は異常だったのだが。 「あの……」  先輩は僕と目は合わせたままであるが、何も言おうとはしない。さっきから、澄んだ瞳で僕を見つめるだけなのだ。 「ここの活動について、教えてほしいんですけど……」  先輩は僕の目から視線を左にずらし、僕の背後の何かを見た。僕もつられて後ろを向く。そこには十数枚の写真が貼り付けられたパネルがあった。大きめのものから、携帯電話で撮ったらしい小さなものまであり、また、カラー写真だけでなくモノクロのものもあった。  僕は立ち上がってそれらを眺めた。先輩はその間もずっと座っていて、僕の背中をじっと見続けていた。僕はその背中をつんつんし続ける視線にいてもたってもいられなくなり、中途半端に全体を見回すだけで再び椅子に座らざるを得なかった。沈黙と視線の組み合わせは実にタチが悪く、僕は始まったばかりの高校生活までも心配になるくらいうろたえた。沈黙を打破するために先輩に何か質問しようと試みたが、困ったことに、その内容を頭の中でうまくまとめることができない。僕は軽いパニックに陥っていたのだ。顔を上げれば先輩と目が合ってしまうので、僕は下を向いたまま、どんなことを質問すればいいのか必死で考えた。でも同時に、何を聞いてもこの気まずい(今思うと、先輩は多分そんなこと微塵も思ってなかったのだろうけれど)沈黙を抜けられないのではないか、という不安が頭に浮かび、考えをかき乱してしまうのだ。  実際には数分しか経っていなかったのだが、僕は数時間に渡ってずっと座っているようだった。焦燥感がピークに達し、部室から走り去ろうとしたちょうどそのとき、突然ドアの開く音がした。 「あれ、新入生」  現れたのは、大江夏乃先輩だった。月浦先輩と同い年で、ショートカットが似合う元気の良い先輩である。新入生がいることがよほど意外だったのか、大江先輩の僕を見る目は、まんまると言っていいくらい見開かれていた。 「タイミング良かったねぇ。もう帰るところだったんだけど」 「あ、すみません」 「いいのいいの。初めての新入生だからね。ココア飲む?」 「あ、はい」  大江先輩は机にあるポットのお湯でココアを作り、僕に渡してくれた。月浦先輩の隣りにパイプ椅子を開き、座る。紙コップから、ココアのいい香りが立ちのぼっていた。 「小夜、何やってるか説明した?」  こく。 「合宿のことは?」  ふるふる。 「写真甲子園……もしてないか」  こく。  大江先輩はそのいくつかの問いで、月浦先輩と僕の会話を全て悟ったようだった。 「じゃあ一応、一年でどんなことをやるかを軽く説明しておくね」  大江先輩が説明してくれている間、月浦先輩は彼女の隣に座って、ときどき自分のココアをちびちびと飲んでいた。  結局雨は止まなかったが、さっきよりは小降りになっていた。バス停に行くと、そこにはさっき分かれたばかりの大江先輩がいた。 「あれ、奇遇だね」  先輩の家は、僕の家の近くのバス停よりもさらに3つ先のバス停にあるらしい。 「そういえば、名前聞いてなかったね」 「あ、はい。岩(いわ)崎(さき)倫(とも)裕(ひろ)です」 「岩崎くん、ね。憶えておくよ。……戸惑ったでしょ、もう一人の2年生」 「まぁ……はい」 「許してあげてね。しゃべるのが苦手なの。恥ずかしがってたんだと思う」 「そうなんですか……」  それにしても限度がある、と僕は思った。 「でもね、すごく可愛くてカッコイイ声なんだ。そのうち聞けると思うよ。……ウチに入るなら、だけどね」  そのときは入部するかどうかはっきりとは決めてなかったが、結局、楽しそうでかつあまり忙しくなさそうという理由で、文芸部と写真部を兼部することにした。しかし写真部の方は、月浦先輩の「可愛くてカッコイイ声」が聞きたくて入部したといってもいいくらいだった。どんな声なのか気になって仕方なくなる、そんな不思議な魅力が、月浦先輩にはあったのだ。  僕の学校の文化祭は、夏休みの直前にある。写真部も普段撮った写真を展示するのだが、唯一の男手である僕は、パネルの配置や長机の移動など、とにかくいろんな場面で作業させられた。大江先輩が「頼りにしてるからねっ!」と満面の笑みで僕に指示するので、とてもじゃないが断ることはできなかった。写真部の展示自体は小規模だったが、文芸部で発行する冊子の原稿を書かなければならなかったし、クラス展示の準備もあったので、寝るときと食事するとき以外は常に何かしらの作業にあたってあるという状況が文化祭直前の2、3日続いた。月浦先輩から初めて電話がかかってきたのは、、そんなときだった。 「もしもし……もしもし、月浦先輩ですか?」  携帯電話の画面には、確かに月浦先輩の名前が表示されていたが、相手は一向に用件を言ってこない。 「何ですか先輩?……もしもし?」 「……部室」 「はい?」 「…………来て」  ぷつり、と電話は切れた。そうして初めて僕は、先輩が電話をかけてくるということの特異さに気付いた。僕はクラス展示の作業を一旦やめ、急いで部室に向かった。メールでなく電話で連絡してきたのは、何か急を要する用事があるからだ、と考えたのだ。  しかし、部室に着くと、そこにはパイプ椅子の上にひざを抱えて座り、やっぱり雲を見上げている先輩が一人いるだけだった。 「せんぱい……?」  先輩はいつものように僕の目を見た。しかし、その瞳はいつものように真っ直ぐではなく、脆くて崩れそうな、何かそんな雰囲気をたたえていた。 「……今日は大江先輩いないんでしたね」  こく。  その日の朝、大江先輩から「今日は休む」という旨のメールが来ていた。なんでも、クラス展示の作業を連日徹夜で行っており、体調を崩したらしい。 「僕、何やればいいですか?」  ふるふる。  先輩は首を横に振ると、椅子からゆっくりと立ち上がった。しかし、視線は床に逃がしたままだ。 「……せんぱい?」  違和感。そのときの先輩は、何かがおかしかった。でも、先輩は何も言ってくれない。 「……どうしたんですか、先輩?」  先輩はうつむいたまま、突然立ち尽くす僕に駆け寄り、背中に手を回してきた。 「……っ? せんぱい?」  僕は1,2歩後ずさりするが、先輩はシャツを両手でぎゅっとつかみ、放そうとはしてくれなかった。僕は顔を上げて先輩の表情をうかがった。どこを見ているか分からない、先輩の瞳。  先輩に抱きしめられたまま何分経過しただろうか。先輩はときどき僕の髪をなでたり、切なげな息を吐いたりしていて、いつもと違って僕と目は合わせない。僕は女の子に抱きしめられているという事実と、先輩の、制服越しに伝わってくる体温だとかにおいだとか柔らかさのせいでもうわけが分からなくなっていた。かといって尋常でない先輩の様子に、無理に引き剥がすわけにもいかず、ただ僕は先輩にされるがままだった。 「ごめんなさい……」  唐突に、先輩はぽそり、とつぶやいた。背中に回された腕が下りてゆく。 「一人は……嫌い」  か細い声でつぶやく先輩。しかし、今度はいつものように僕の目を見ている。その瞳は、心なしかさっきまでの脆さは無くなっているように見えた。                        続く