【Strangers' Strain】 Written by 浅霧志音  世の中には変人ばっかりだ。今日ほどそれを痛感した日は今までなかった。  俺は専門家でもなければ知ったかぶって社会批判したりする趣味も持ち合わせていないので情勢が人格形成に影響を与えるとか賢しげなことを言う気はないが、とりあえず世間一般に出しても恥ずかしくない程度の分別と判断基準を持ち合わせているつもりで、それに当てはめて変人と判断できる人間は結論として多少なりともどこかがおかしいと見て間違いはないだろう。  ……長々と概念論の出来損ないみたいなものを並べてても仕方ないな。とりあえずは今日の朝から、俺の周りの奴らの暴走加減を順を追って説明するとしようか。全く、理不尽にも程があるだろうと耳元で声を大にして叫んでやりたい気分だ。俺の安穏とした日常生活を返せ。  ま、結局の所。  平穏が欠けた普段ってのもそんなに悪いもんじゃないと思ってる俺が一番変なのかもしれないけどさ。 「んじゃはい、原稿よろしく」 「ちょっと待て」  一時間目の講義が始まる数分前、登校直後の俺に紙束を押し付けて立ち去ろうとした不届き者を引き止めた。 「……コレは何だ」 「だから原稿だってば。年齢制限がかかる内容じゃなければ詩だろうが小説だろうがエッセイだろうがジャンルは不問。締め切りは来週の月曜日だからそれまでに作品をひとつ書き上げてってやめて首が絞まるし服が伸びる」  ここは比較的広めの講義室。衆人環視の中の尋問はこれ以上無理だろうし、何よりもう講義が始まるだろうからな。ちょっと良心が咎める所もあるが仕方ない。俺は手早く荷物をまとめると、不届き者の襟首を引っ掴んだまま外へと出た。 「で、何で俺がその原稿とやらを書かなきゃいけないのか詳しく説明してもらおうか」 「何でって、時任(ときとう)君だって文芸同好会のメンバーなんだからしっかり活動に参加してもらわないと」  頭痛と共に約一ヶ月前の記憶が舞い戻ってくる。  新入生の中から数名選出される学生委員に持ち前のクジ運の悪さで当選してしまい憂鬱感を噛み締めていた時に声を掛けてきたのがこの熊野和沙とか言う飄々とした雰囲気を纏った女。何やら新たにサークルを設立したいので同じ学科の委員としての好(よしみ)で名義だけ貸してくれと言われ、特に反対する理由もないかと思った俺は素直に記名してしまった……ような覚えがある。 「名前だけって話だったろ。俺に文才なんか欠片も存在しないぞ」 「いやいや問題ないよ。大丈夫だから」  ……一体何が大丈夫なんだ。  しばらく水掛け論というか押し問答というかを繰り返していたのだが、そろそろ道行く人々の視線が痛くなってきた頃になって突然熊野の態度が変わった。 「お願い! 現時点で文芸同好会は同好会として認可される最低人数の五人しかメンバーがいないの! 君が抜けて活動実績が作れなくなると必然的に消滅になるんだよ! だから、この通り!」 「…………」  土下座された。流石にここまでやられて突っぱねるほど根性が捻じ曲がったりしていなかった俺は、溜息交じりで承諾することとなる。  そして昼休み。格安の味気ないサンドイッチを咀嚼しながら見上げた青空は陰鬱でグレー一色の俺の心情とは対照的に目が痛くなるほど澄んでいて、どうしてこんなに沈んだ気持ちにならなきゃいけないのかと自問してみても結局は自分の行動の迂闊さと押しの弱さと気軽に引き受けられるだけの文章能力が欠如していると言う事実に帰結するわけであり、結果として俺の嘆息と憂鬱は倍増するだけだった。  心中の暗雲を少しでも晴らそうと多少気心の知れた友人たちに愚痴ってみたりもしたのだが、 「時任君も大変なこと引き受けちゃったもんだね。そんなに人が良すぎると後々苦労するよ?」 「お前には心の栄養が足りてねえんだよ。彼女でも作ったらどうだ? 熊野は問題外だから無視するとして、学科にゃ今休学中のえらい可愛い先輩がいるらしいぞ」 などといかにもありきたりかつ投げやりな返答しかなかった。まあ元々打開策の提示なんて都合のいい展開を望んでいたわけじゃないけどな。  最早頼りにできるのは自分の力だけだと一種の悟りの境地に達し午後の講義をひたすら文章の構想を練るのに費やしてはみたものの、そもそも文字列の創作なんてのは小学生の頃嫌々やらされた読書感想文くらいの経験しかなかったわけで。案の定と言うか何と言うか、成果として出来上がったのは稚拙なブレインストーミング後の残骸みたいなルーズリーフが一枚だけだった。これじゃ資源を無駄にするだけだな。俺はやればできると言い切れるほど自信過剰じゃない。今日の所はサクッと諦めて帰るとしよう。くしゃくしゃに丸めたルーズリーフを上着のポケットにねじ込んで立ち上がる。  今日は火曜日。締め切りと指定された日まで一週間弱はあるんだから、まあ何とかなるだろう。何ともならなくても結局はどうにかなるもんさ、人生ってのは。多分な。  で、さっさと帰宅して風呂入って夕飯食って原稿の事なんか綺麗サッパリ忘れたまま今正に寝ようとしていた見事なタイミングで父親に揺り起こされた。俺の家はそこそこ昔から存在する小規模な動物病院を営んでいるんだが、入院させていた子犬が一匹脱走したから探すのを手伝えとの事だ。ちょっと面倒ではあるが、育った環境が環境だけに俺はかなり動物好きな方だという自覚がある。ほったらかしにして哀れな目に遭わせてしまうのも忍びない。俺は寝巻きのジャージの上に軽くジャケットを羽織ると、欠伸を噛み殺しながら玄関を出た。  母親の話では子犬は足を怪我していたらしい。ってことはいくら治りかけであってもそうそう遠くまでは行けないだろう。そう思って町内をうろうろしてみたところ、五分もしないうちに弱々しげな鳴き声が耳に届いた。住宅地の中にぽっかり穴のように残った空き地、そこに転がった錆だらけの鉄パイプの中からの救難信号だ。覗き込んでみるが思ったより奥の方で引っ掛かっているらしく姿が見えない。子犬よ、入院生活が退屈で逃げ出してしまったのはわかるが何故こんなのに潜り込んだんだ。赤錆特有の鉄臭さが嫌じゃなかったのか。 「よっ……と。……よし届いた。痛、わかったわかった、今出してやるから噛むなって」  手を突っ込んで子犬をそっと掴み、怪我をさせないようにゆっくりと引っ張り出す。助かるとわかったのか子犬の鼻を鳴らす頻度が増えた……んだが、何だか逆に危険が迫ってるかのような寂しげで怯えたように聞こえてしまってるけどな。ようやく鉄パイプの束縛から解放してやった時には指に歯形がついたり二の腕が錆まみれにになったりしたが、まあこの位は許容範囲だろう。  ズボンについた土だの枯れ草だのを払い、ついでに錆も叩き落とし、まだクンクン言っている子犬を抱きかかえて立ち上がり、帰宅しようと振り向いて、  俺は絶句した。  なるほどね。さっきからコイツがやけに鳴き止まないと思ったらコレのせいか。そんな風に納得できてしまうほど、何故か俺は冷静だった。  立ち尽くす俺を塀側へと追い詰めるかのように等間隔で並ぶ三つの影。人じゃない。シルエットから判断すればただの犬だ。  だがちょっと待ってくれ。野良犬ってこんなに体格がいいものだったか? 後ろ足で立ったら多分俺と同じくらい、いやそれ以上あるぞ。ついでに唸り声だけじゃなくてあからさまな殺気っぽいものも放ってるし、それより何より目が濁った赤に爛々と照り輝いてるのはどう考えてもおかしいだろオイ!  状況を認識することで徐々にパニック状態になってきた俺は、無意識下で防衛行動をとっていた。つまり、後ずさりしてしまったのだ。  非現実的な張り詰めた空気の中地面を擦る音は驚くほど大きく響く。そしてその音を合図としたかのように三つの影は同時に飛び掛ってきた。  さほど強くない月の光の下でもくっきり浮かび上がる爪と牙。最早その鋭さはどう見ても犬なんかじゃなくて狼とかその類の肉食獣のもので、その切っ先と三組の赤い双眸が自分を見据えてるとなってはもうどうしようもない。抵抗しようとかの思考が出る間なんか微塵もなく、気付いた時には地面に突き倒された状態でマウントポジションを取られていた。せめて視覚的なショックを抑えようと目を瞑り、軽い走馬灯を見ながらああ短い人生だったなと嘆いて、数秒。 「…………?」  衝撃が、来ない。  自分が無事であることに疑問を覚え、もしかして一撃で首でもやられて即死したけど意識だけが残留して自縛霊になっているとかじゃないかと本気で思い、瞼を持ち上げる。  地面に横倒しになった形で薄れて消えていく野犬らしき物体。そして目の前には、片手に何か棒状のものを携えた人影があった。  残った二匹が人影に飛び掛るが、 「甘いわっ! 砂糖と練乳がたっぷりかかったイチゴショートより甘々や!」  長いポニーテールを翻しながら棒を一閃。スパーンと言う乾いた音と共に二匹の影は弾き飛ばされ、先程のと同じようにゆっくり薄れて消えた。  理解を超えた目の前の出来事に再び絶句していると、 「兄ちゃん、危なかったな。大丈夫か?」  人影――関西弁訛りの少女は、座り込んでいる俺に手を差し伸べながらニカッと笑った。  未だに思考回路が凍結したままなこっちに理性的な対応ができる訳もなく、あまり短くもない間を呆けたマヌケ面で沈黙した後促されるまま手をつかみ、先ほどの呆気なくも豪快なバトルシーンには不釣り合いに華奢なその感触に軽く驚いて、……ようやく頭が覚醒する。 「…………な、ちょ、あ、今のは……」 「お、何やもう脳ミソ回り出したみたいやな。復活早いし比較的冷静やん、感心感心」 「いや全然落ち着けてはいないが」 「そういう切り返しができるっちゅー時点で十分冷静やと思うで」  ……確かに。もしかしたら自分で思っている以上に俺の神経はズ太いのかもしれない。喜ぶべきかどうかは微妙だが。  ひとまず数回の深呼吸で息を整え、改めて辺りを見回してみた。  日付の変わった深夜の空き地。腕に抱えた子犬の息遣いとわずかな虫の音だけが届く静かな空間だ。んで俺の目の前には緩んだ表情の関西弁少女が立っている、と。OKOK。 「夢だな」  スパァンと乾いた打撃音が響くと同時に強烈な衝撃が顔面を襲い、俺は再び地面に転がった。 「わかったやろ、夢やないでー」  笑顔のまま人を殴り飛ばした少女は、棒……というか妙に長いハリセンをくるくる回しながらこちらをのぞき込んでいる。 「あのタイミングでボケるとは兄ちゃんホンマに余裕あんなー、反射的にツッコんでしもたで。将来は大物やな」 「初対面の人間を全力殴打するあんたの方が大物だろ」 「関西人のツッコミに容赦を求めるんやったらボケたらあかんねん」 「別にボケたんじゃない、本当に夢で片付けたかったんだよ」  衝撃の残滓でフラつく頭を抑えながら立ち上がった。と、その拍子に羽織っていたジャケットのポケットから何かが転がり落ちた。ああアレだ、無い知恵を搾った搾りカスのルーズリーフ。 「って待て拾うな広げるな見るな!」  事もあろうにそれは夜風に吹かれてコロコロと転がり怪しい少女の足下へ。まだ半分腰が抜けている俺にはすかさず拾いに行くだけの余裕が無いし、多少制止されたってこのシチュエーションなら誰でも好奇心は抑えられまい……っつかあいつ今俺が止めたからってあえて拾わなかったか? 気のせいじゃないよな、何か口元が微妙に笑ってるし!  などと予想外の性格の悪さの片鱗を見せたことに狼狽しているうちに、広げられたルーズリーフはその無残な内容をしっかり晒してしまっていた。 「へぇ〜、兄ちゃん小説なんか書くんや」  ニヤニヤと形容するのがピッタリの笑みに溜息一つ。 「……別に好きで書こうとしてるんじゃない。ただ単に押し付けられたんだよ」 「ふ〜ん……」  少女は再び残骸に目をやり、十数秒何かを考え込んで、改めてこちらに向き直った。 「……なあ、兄ちゃん」  あまり高くはない春の月の青白い光の下。不意の夜風に長い後ろ髪をなびかせながら、相変わらず微笑したままの少女は軽やかに言葉を紡ぐ。 「バイト、せーへん?」 「…………は?」  台詞への理解が追いつかない俺の反応など意に介さず。 「仕事内容はウチの手伝い。勤務時間は不定期曜日の深夜間適当に。雇用期間は今んところ未定。報酬は兄ちゃんの創る小説のネタ提供。とりあえずは今夜のこと脚色しつつ文章にしてみればええんちゃう?」  酸欠の金魚の如く口をパクパクしている俺の手を強引に引っ掴んで握手しながら、少女は満面の笑顔でトドメの一撃を放った。 「ウチは退魔師のチヒロ。よろしく頼むで、兄ちゃん!」  これが俺と一番の変人――――チヒロとの邂逅、だった。                                       続く