閉じられし黒   迂闊茶  首を切られた猫の死骸を子供がつつき、笑っている。  僕が小学生の頃の記憶、モノクロで懐かしくも、無機質な記憶。  それを見た僕は初め恐怖した。あまりに、猫であった死骸が可哀そうで、あまりに、子供達が無邪気で、かつ残酷で。  ただ次には、歩きながら眺めている内に、静かな憎悪と冷ややかな視線が僕の中に産まれた。最も残酷な遊びをしている子供たちを見ての反応としては、ごく自然なものだと思う。  それでも眺めるのはやめられなかった。恐怖は興味に変わっていた。  僕と子供たちとの間にある「ズレ」に、そして何より僕をゆさぶった激しい感情に惹かれていた。  今もそれは強く刻み込まれている。  そして、本は閉じられる。  ■ ■ ■ ■ 「ったく、ひでぇなー」  朝の住宅街、制服を着た活発そうな男子学生が走りながら呟いた。 「猫の目にガムテープを巻きつけるなんて、何考えてんだか。あんな可愛い生き物をいじめるなよなー」  そう言う彼は遠い目をして、のほほーんとほほ笑んでいる、鼻の下も伸びているようだ。これに対し、 「恭介こそ何考えてんのよ!せっかく学校に間に合いそうだったのに、猫なんか助けて。また遅刻しちゃうでしょーが!」  と、その横を走る、セミロングの黒髪で顔立ちは整っているものの、やや目つきの強い女子学生が返した。 「いや、子供たちに囲まれて可哀そうだったし。子供って弱いもん見ると、すぐいじめるしさ、ほっとけなかったんだって。わざわざ迎えに来てくれたのに、ほんとワリィ。ごめん、紗枝!」 「まったく……どうしようもないよね、その猫好き。いい加減に何とかしなさい。あと大分ひっかかれて傷できてるから、休み時間に保健室に行きなさいよ」  子供扱いされムッとした、彼、蓮沼恭介はおどけながら両肩をすくめ、 「へいへい。わかりましたよ、紗枝ねーちゃん。誕生日は半年しか違わないのに、紗枝は昔から姉ちゃんぶるんだよなー」  口をとがらせながら、彼女、夕凪紗枝をおちょくった。これを聞いた紗枝は激怒し、声をあげる。 「それはアンタがガキだからでしょうが! だいたいねぇ、アンタこの前も……!」 「おわっ! 悪かったって! そんなに噛みつくなよ! お、見えてきた、見えてきた。もしかしたら間に合うかも、お先っ!」  と、言うや否や、形勢不利と見た恭介は走るスピードを上げていく。それを見た紗枝も、 「ちょっ!待ちなさい!あんたのせいで遅刻しそうになったんでしょ! ……もう!」  と、叫び恭介の後を追うように走っていく。  二人が向う先は彼らが通う、県立錦糸高校。  トラックが二台かろうじて通れる幅の門の両側には、桜の木が植えられ枝葉でアーチを作っている。  季節は初夏、校舎付近の茂みと同じく、桜も新緑の緑に衣替えしていて、はつらつとした太陽の光を透かす緑のアーチを二人はくぐりながら門を抜ける、そして薄汚れたベージュ色の校舎へまっすぐ走って行った。  恭介が玄関の靴箱にたどりつくと、恰幅が良く、髪を刈上げている男子学生が声をかけた。 「よう、恭ちゃん! 二年になっても相変わらずだねぇ。ん、紗枝ちゃんは?」 「はぁ、はぁ……お、おはよう、だいちゃん。俺も先輩になったからには頑張らなきゃと思ってるんだけど、紗枝は……」 「コラー!待てって言ってるでしょうが、このバカ! ……ふぅ、あ、近藤君、おはよー」  急いで髪型を整えつつ、紗枝が言うと、 「おー、女の底力。息もきれてねーし、バケモンかよ。ありえね……」  恭介は膝に手をつきながら、紗枝を見上げて半目で言った。それに対し紗枝は拳を震わせながら固めて、 「……アンタ、そのバケモンに一度痛い目に遇わされたいみたいネ?」  明らかな殺気を周囲に振り撒きながら呟いた。脅迫の対象、恭介は既に体勢を整え逃走準備を終えている、顔が結構必死だ。すると、笑い声が二人の隣で漏れた。 「ははは、うん、うん。やっぱ二人揃わないと、しっくりこないよねー。おはよう、二人とも」  笑い声の主、近藤大輝は傍観をやめ、改めて挨拶した。大輝の楽しげな声を聞いた恭介は肩を落とし、苦々しげに言う。 「勝手にコンビ作るなよ……。まぁ、今年からクラスが別々になって少しは楽になったけどなー」  これを聞いた紗枝も不満の表情をしつつ、文句を声に出した。 「それはこっちのセリフ! あんたの面倒見ないですむようになって、やっと高校生活が楽しめるようになったんだから!」  ここで、 「はい、はい、そこまで。悪かったよ、変な事言って。早く行かないと本当に遅刻しちゃうよ。ん? 恭ちゃん、結構ケガしてない?」  大輝は、まるで子供のように憤る二人を見て苦笑しながら話を変えた。これに対し恭介は表情を一転、眼を輝かし自慢し始める。 「おー! よくぞ気づいてくれた! これはな、猫がいじめにあっているのを助けるために、つけられた名誉の負傷なわけよ。そうそう簡単には治せないね!」 「バカ」  恭介が愛おしそうに傷を撫でるのを冷めた目で横目に見つつ、紗枝が呟くと、 「なぁにおうぅ!?」  と、恭介は応え、二人は火花を散らしながら睨みあった。これを見かねた大輝がまたも、 「まぁまぁ。猫につけられた傷とはいえバイ菌とか入ったら良くないから、恭ちゃんは消毒しておいで。先生には俺が伝えるよ。紗枝ちゃんも早く教室行こ?」  彼らしくとりなし、 「へーい」「そうね……」  と、従順に二人は答え、それぞれの向う先へ別れた。途中、恭介は気だるそうに振り返り言う。 「んじゃ、だいちゃん、よろしくなー。紗枝も、また昼休みー」 「うん、わかったー」  大輝は答え、 「はいはい」  紗枝もしようがなさそうに返事して、紗枝と大輝は階段を上がっていった。それを見届けた恭介は、一人保健室へと静まった廊下を歩いて行く。  ■ ■ ■ ■  疲れる、僕は疲れる。こんな平易で無意味な日々を過ごしていくのは、ただ疲弊してしまう。  教室にいるだけで、周囲の他人を認識するだけで、まざまざと他人とのズレを再確認してしまう。  いっそ嘲笑いたく、壊してしまいたくなる。  この黒い感情がおさまるまで休んでいよう。  そう、椅子にでも座って本でも読みながら……  ■ ■ ■ ■  俺は、保健室の前に立ちノックをし、 「失礼しまーす」  と言いつつ保健室に入った。  まず、目に入ったのが風、いや、風にたなびく白いカーテンだ。  窓が開いている。初夏の風は身を洗うように吹きぬけて行く。  気持ちよさに目を細めると、窓よりこちら側に何かがいるのに気づいた。  それは影だった。  部屋の全てが白く染められている中で、たった一つの黒いしみ。  その影はパイプ椅子に座っていた、そして手に何か持っていた。  影はそれを見下ろすように眺めている。聖書のような荘厳さで、不吉が滲んだような鈍い黒で、彩られた分厚い本を。  俺がそれを見つめていると、影は少年となり、俺の顔を見上げて、  影絵のように笑った。  そして、本は閉じられる。